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灘酒の成り立ち
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我が国の酒造りの歴史は古く、『日本書紀』の
「スサノオノミコト伝説」にも酒が登場するほど。
そして、時代が進むにつれ、酒造りも洗練されていき、
現在に続く酒造りの骨格が定まったのは江戸時代であり、
必要な条件を持った摂津国がその代表的な地となり、
中でも伊丹、西宮そして灘地方が中心でした。
寛永年間(1624〜1644年)になると伊丹の酒造家・
雑喉屋文右衛門が西宮に進出したことをきっかけに
多くの者が追随、流通の優位性から灘で本格化しました。
灘は、原料米と原料水、そして気候風土、さらに海運という
酒造りに必要な条件を揃えた土地で醸し出された
「灘の生一本」は江戸人好みの酒の代名詞となりました。
そんな酒造りの中心となった灘地域は、東郷(魚崎郷)の
魚崎(当社・「櫻正宗」の醸地)を含む五つの郷から成る
灘五郷と称されました。
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西宮の水「宮水」の発見
三代目太左衛門以降、江戸送りの船便の利便性から
西宮と魚崎に蔵を持つまでに成長します。
しかし、六代目太左衛門は二箇所の酒造で常に品質が
西宮・梅の木蔵が勝ることを発見し、試行錯誤の末、
梅の木蔵に湧き出る井水が高い品質を生み出すことを発見。
その井水を牛の背に載せ、魚崎に運び、西宮の水「宮水」の
酒が評判を呼び、灘には欠かせないものとなりました。
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酒銘「正宗」の誕生
その頃、六代目太左衛門は当時の酒銘「薪水」が
女性的で酒客の好みに合わないことから
醸造法の改良とともに酒銘の検討をしました。
ある時、親交のあった山城国深草の極楽寺村瑞光寺
(元政庵)の住持をその草庵に訪ねた折、
「臨済正宗」と書かれた経巻を見て、正宗(セイシュウ)が
「清酒」と語音が相通じることから「正宗」を酒銘とし、
それが評判を呼び清酒の酒銘に使われるようになりました。
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櫻正宗の誕生
この頃、山邑家の酒造りはさまざまな近代化に取り組み、
1884(明治17)年に山邑家は「正宗」を
商標登録することにしましたが、酒の優秀さ故に、
正宗は清酒の代名詞としてその銘は一般化して
しまい、政府は「正宗」銘を普通名詞とすることとしたため、
認められませんでした。その際に、政府の勧めもあり、
国の花と言える紅色複弁の櫻花一輪を配し、
「櫻正宗」と改称して登録商標としたのでした。
それが現在の社名である「櫻正宗」の誕生でした。
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江戸時代と変わらず、明治期においても山邑酒造「櫻正宗」は
灘の清酒メーカーを牽引していく気概に満ちた蔵でした。
1904(明治37)年、政府により官立醸造試験所が設立され、
安全醸造と酒質の向上のために全国から優良な酵母が
集められました。その結果、「櫻正宗」の酵母が
もっとも優れていると判断され、「櫻正宗」の酵母が
「協会一号酵母」として全国に頒布されました。